2015年の記事

121215

 子供の頃、通販のカタログのダイエットシェイクのページを眺めながら、大人になったらダイエットしてみたいといつも思っていました。代替念慮なんて言葉を思いつきました。生活の一部を何か別の非日常に換装してみたいという思いがいつもあります。変身願望の小さいバージョン。髪を染めたり爪を伸ばしたり、手錠のような腕時計をはずして、懐中時計を試してみたり。こういうことを書いていると、自分の深いところが露呈していく感じがします。書くことは恥をかくこと。日常的に継続的に文章を書く人は、度胸のある人だ。肝の座った人間になりたいという思いも、そういえばずっと抱いていたっけ。いろいろあった2015年もそろそろ仕舞いが見えてきた。このまま終わるのも芸がないし、何か変化が欲しいところ。ここらでひとつ、肝っ玉でも換装してみようか。

150815

 適当に笑い飛ばして、それで終わりにしたい。じめじめと黴臭い自分のそういう部分が嫌で仕方ない。明日からまたちゃんと文章書きます。ごめんなさい。

140815

 半年くらい前から、マスカルポーネのようなナチュラルとうふがマイブームです。疑問に思わないでくださいね。わたしにもよく分かりません。でも袋には本当に「マスカルポーネのようなナチュラルとうふ Natural Tofu Marcarpone-taste」と書いてあって、どこからどこまでが商品名なのかわからないんです。このナチュラルとうふ、よくある豆乳プリンなどではなく、ちゃんとニガリで固めてある、一人前の充填豆腐なんだそうです。硬派!スイーツとして食べるのであれば、正直ゼラチンで固めたかニガリで固めたかはそんなに大きな問題じゃないような気もしますが、豆腐ならばおやつに入らないと高らかに宣言するためには必要そうです。そういうこだわりって大事です。スイカは野菜か果物か。みたいな。2年前の初夏、スイーツとしておぼろ豆腐を食べるのにハマっているという記事を書きましたが、ようやくわたしの時代がやってきました。

120815

 すべてのことから少しずつ距離をとっていたいと願う。気づけば車道の真ん中を歩いていた。声は届かない。届けようとも思わない。はかなく淡い春霞のごとき砂糖菓子の類いは、あくまで供物であるに過ぎない。自分ではない、誰か、あるいは何かのためのものだ。

110815 (2)

 革靴を磨く。知らぬうちに付着した汚れを除去し、曇った表層に油を塗り広げ、斑の無きよう、靴墨で塗りつぶす。革靴を磨く。薄暗い玄関先に一人、背中を丸めて腰を下ろす。消耗した道具をなめらかに労わり、歩んできた道の一つひとつに想いを馳せる。それは喜ばしく孤独で地道な作業だ。

 人生を一本の道に喩えることがある。過去の生活史を足跡と云う。生きるというそのことを、歩むと表現する。歴史を刻むのはひと自身であるが、人生が道であるならば、そこに足跡を残していくのは、靴であると云えようか。靴磨きの話をしたが、最近は自分磨きという言葉が流行している。文化的体験を通じて自身を価値ある上等の人間たらしめる行為であるらしい。ひょっとしたらそれは、ストレスや認知の歪みをぬぐい去り、精神に潤いと光沢を与え、同時に、自分自身を黒く均質に塗りつぶす作業なのかもしれない。

110815

 夏といえばかき氷だ。かき氷といえばブルーハワイだ。苺、檸檬、メロンと、果実のフレーバーが並ぶ中にあって、それは特異な存在である。ブルーハワイ。その色はいたずらに青く、その響きは淡いロマンに満ち、その香りは胸の奥に横たえていた記憶を呼び覚ます。ブルー。海の色。鎮魂歌のごとく瞑想的な摩擦音を立てながら、支配的な慈悲深さを伴って砂浜を愛撫してゆく、べったりと冷たい潮水の碧。空の色。見上げれば電線で包囲された無限遠のカンヴァスに、7月の絵筆が滑らかに塗りあげてみせる、じりじりと鮮やかな顔料の蒼。ハワイ。向日葵畑の脇の土臭い小径を、履き古したスニーカーの足跡で縫い進めながらこんがりと焼けた田舎の少年が、モダンで非日常的な響きに抱く遠いあこがれ。ラムネ香料。渇いた喉に高鳴る鼓動をくすぐる爽やかな香り。炭酸の気泡がガラスの曲面に描く小さな星団。陽光を吸い込んだビー玉が弧を描いて転がる音。握りしめた100円玉の生ぬるい金属臭。ブルーハワイは夏の追憶すべてを、かくも艶やかに描いてみせる。個別具体的な味を模したものではなく、極度に抽象化された、夏のフレーバー。夏といえばかき氷だ。かき氷といえばブルーハワイだ。そして、そうだ、ブルーハワイといえば、それはまさしく夏なのだ。

090815

 Tシャツは、一つのメディアだ。というテーマで何か書こうと思ったのだけど眠すぎて無理です。いつか書きます。

080815

 たまにきちんとした商業施設にいくとあまりの寒さにびっくりする。ただ空気が冷却されているというだけじゃなくて、なにかこう、胸に迫ってくるものがある。誰かの思惑をダイレクトに感じるような温度設定だと思う。みたく変に理屈をこねるより、ふつうに涼しさをありがたがるほうが都会の人っぽかったかもしれない。都会の人はふつうの人で、ふつうの人は都会の人だ。都会の人の集う商業施設は楽しくて明るくて賑やかで、それから夏はたいてい、すっごく涼しい。思うに、世の中に楽しくて明るくて賑やかですっごく涼しい場所というのはあんまりない。明るい場所はたくさんあるし、賑やかな場所もすっごく涼しい場所もたくさんあるはずなのだけど…。どうやら楽しいか否かが分かれ道みたいだ。と思ったけどものごとを素直に楽しめない自分の心がボトルネックだった。

070815

 開き直ってしまえば楽、という意味のことがよくいわれるけれど、それにしても最初のハードルが高いと思う。高すぎると思う。その点ミニマリストの人々(「-istの人」というのは文法的には重複表現だけど、結局この表現が一番しっくりくると思う)はすごい。…と思ったけれど、自分も周りからみたら絶句されるような生き方をしているかもしれないと思う。何も失うものがない人がいないのなら、あらゆる領域において失うものがある人というのもいないと思う。少なくとも多くはないと思う。生きるというのは、大量にある手札を一枚いち枚(時には数枚まとめてどーんと)切っていく作業だと思う。手札がすべてなくなれば上がり、だけど、なるべく長く生きていたいから、できるだけ多くのカードを抱えたまま進んでいけるルートを必死に探しているのだと思う。ミニマリストにさえなれないといって悲嘆に暮れる必要もない。と思う。

060815

 現代的なライフスタイルを取り入れよう。最新のテクノロジーがそれを可能にしてくれる。右手にはアイフォン、左手にはマックブック・エアー。スマート・ウォッチも忘れずに。ソフトドリンクは何を飲む?コカコーラなんてもう古い。カフェインとアルギニン添加のエナジー・ドリンクが、アクティブに生活を楽しむぼくらの相棒。ワイヤレスのノイズキャンセリング・ヘッドフォンで流す音楽はもちろんテクノポップス!でも、ゲームミュージック育ちの僕らは、ジャンルにとらわれずいろんな音楽を好む傾向にあるかもしれない。音楽といえば、ギターは男子の必須教養だ。Fのコードが押さえられなくて毎晩練習したっけ。あの頃はスポーツにも熱中していた。コンスタントに続いているのはランニングとバドミントン。ロードバイクも楽しい。マリンスポーツやウィンタースポーツは、自分が自然に囲まれて生きているってことを実感させてくれる。仲間と行く季節のスポーツは時を忘れて盛り上がってしまう。価値観の合う友達と出会えたことは一生の財産だ。でも、女の子とのロマンスも、友達と同じくらい大切。ソーシャル・ネットワークで知り合うなんて、今じゃ珍しくもなんともない。さっき彼女からメッセージが届いた。セルフィで撮ったセピア調の写真。シェアが大好きな彼女だけど、インスタグラムにはアップロードせず、ぼくにだけ送ってくれたらしい。今度の恋はうまくいきそうな予感がする。スタンプでユーモアを演出しつつ、デートではかっこいいところも見せたい。タブレットのナビゲーションで、デートコースを今から予習しておこう。モダンで都会的な生活は毎日楽しい。だけど時おり、素の自分に戻りたい時もある。そんな時は、くたびれたのれんが印象的な、路地裏の定食屋へ。安くて早くておなかがふくれる定食屋さんは、今も昔もぼくらの味方だ。自分の感覚に合うものだけをセレクトするのが自分流。でも本当は、ランチのメニューだけじゃなく、価値観も一揃えになっていると嬉しい。こういう小説を書きたいと8年くらい思っている(わたしに造詣が深くない方のために補足しておくと、わたしは暗くて性格が悪いので、この主人公の男の子はのちに発狂することが決まっている)。この部分はあの小説から影響を受けてるな、あの部分はこの広告からだな、というのが自分ではっきりとわかるので、なんというか、そういう感じです。しっかりしたい。

050815

 暑いので、ベランダにせっせと水撒きをしています。省エネは大切!日中は窓を閉め切っているので、ベランダから涼しい風が入ってくるということはないのだけど、窓を閉め切っていると、湿度が上がってむしろ過ごしにくくなる、なんてこともないからいいんです。チームプラスマイナスゼロ。ジョーロ1杯の水道代で地球にイイコトをしている気分になれるのだから安いものですね。まさしく健全な趣味といえるでしょう。皮肉じゃないですよ。

 個人で庭にまくだけでも楽しいものですが、楽しいことはみんなでやるともっと楽しくなったり、あるいは楽しくならなかったりします。商店街や歩行者天国で大勢がいっせいに水撒きをする光景も珍しくなくなってきました。不衛生な生活排水や、場合によっては軽い産業排水を公道に撒き散らすことの是非はともあれ、地域コミュニティの活性化には効果がありそう。皮肉じゃないですよ。

 打ち水は古くからある由緒正しい文化です。日常的だったものが一旦廃れて、また普及していくあの感じ。江戸しぐさを感じます。昔よく耳にした「マナーからルールへ。そしてマナーへ」という謎めいた格言と同じ構造。つくづく意味深です。意味深なものが絶対に圧倒的に正しい。意味深なものにしか真理はありません。皮肉じゃないですよ。

040815

 松前漬。佃煮。さつま揚げ。地名の入った料理ってもう新しく出ないのでしょうか。うまく言えないけど、どこどこ風のなになに、というふうに分割できないもののことです。と、ここまで書いて、自分の中で区別があまりついていなくて少しむせました。後半の部分がどのくらい抽象的かという問題かもしれない。沖縄そばは微妙なところですね。うーん。とりあえず原宿ドッグが最後かもしれない。おなかがすいてきました。

030815

 ゴーヤチャンプルーを食べました。軟派で貧弱な東京モンのわたしは、苦味を抑えるために、塩で揉んだり卵でとじたりといろいろ工夫するわけですが、苦手なら食べなければいいじゃない、とならないのが不思議なところ。夏になるとあの苦味、あのえぐみが恋しくなります。

 風邪をひいて寝込んだ日、経口補水液を一口飲んだときに感じたおいしさ、体の内側で感じる浸透感が忘れられません。それから、症状が治まってからもう一度飲んで、なんて変な味なのだろうと感じたときのことも。甘味は糖分、塩味はミネラル、旨味はアミノ酸を検知するシグナルとか言いますね。酸味は腐敗したものを、苦味は毒を避けるためだとも。大人になって苦味が欲しくなるのは、毒をもって毒を制したくなるから?

020815

 プリント化粧板や木目調のカッティングボードに激しく心動かされる。事務用品の折りたたみテーブル。特急列車の内装パネル。イミテーションには妙な引力がある。電球色の蛍光灯。合成皮革のシート。それから、自動販売機のホットドッグ。取るに足らない水準のものに、小さな虚構を練りこんでかさ増しした、多孔質の非日常。思うに、しょうもないものは見た目だけ取り繕ってよく見せようとしてもうまくいかなくて、何かもうひとひねり工夫する必要があるんじゃないだろうか。それがたとえば刺激的な空気感とかノスタルジアの最大公約数だったり、こういうものがモダンで高級なんだという社会教育の成果だったり、つまりは妙な引力の正体なんだ。虚構そのものがロマンを含んでいるのでなく、ロマンが添加されているならば虚構であっても存在を許されるといったほうが、たぶん正しい。

010815

 間違いなく何か目的があって買ったであろう手縫い糸があるのだけど、何に合わせて買ったのか思いだせないでいます。オリヅルの185番。やや彩度の低いシャンパンゴールドとでも言ったら良いでしょうか。昔からあるものを洋風の名前で呼ぶことに、ほんのすこし気恥ずかしさがあります。お茶の席をジャパニーズ・ティー・セレモニーと言ったりするような。

 毛糸には色番号のほかにたいてい染めのロットが書かれていて、同じ色番号のものでも、ロットが違うと微妙に色が違うことがあり、審美的な作品を創作するときはその微妙な色の違いを嫌ったりします。もしかしたら初物のワインのように、いついつのロットは厳冬のため羊毛の出来が良く、弾力感、染まりの奥行きとも申し分ない、過去最高の出来である、とか、いついつのロットは微妙に彩度が高く、いささか無粋な印象である、なんてことが噂されていたりして。絶対ないでしょうね。

260715

 心がざわつく体験をした。水泳の帰り、21時半ごろのことだ。バスを待つ間にコンビニでアイスを求めようと冷凍庫の前で品定めしていたところ、髪を明るく染めパーマをかけた小太りの若い男性店員がこちらに近寄り、商品の陳列作業のかたわら、わざと注目を引くように「アチイ、アチイ」などと連呼していたのだ。理由はわからない(ことにしておく)が、脳の深い部分のところがぞわっとするような感じがして、結局何も買わずに店を後にした。

 それはまあよいとして。

 バス停に戻りベンチに座っていると、白い肌着のようなものを召した老女が私の前を横切って行かれた。鞄も持たず、ふらっと家を出たようなていではあったものの、特に体が弱った様子もなく、むしろ姿勢や脚力などはしっかりとしており、健康そうな足取り。彼女が目の前を通り過ぎたその瞬間、わたしは別の考え事をしていたこともあり、さほど気に留めることもなかったが、思い返すと不審な点が多数ある。なぜ肌着で外出を?こんな夜に一人でどこへ?鞄も持たずに?靴はどうだったか?この種の疑念は一旦始まるときりがない。脳裏に浮かぶのは、眼前を通り過ぎる彼女の、こちらに目もくれず遠くの足元をぼんやりと見つめるような微笑み。恍惚にも似た独特の表情。もしや。まさか。いや、しかし。混乱が解け、やはり彼女は徘徊していたのでは?と頭に浮かんだ頃、すでに老女は10メートルほど離れたところを歩いていた。彼女に声をかけるべきなのか?しかし変に刺激するのも良くないのでは?そもそもわたしの杞憂ではないか?逆にこちらが何か疑われてしまいかねない?などと狼狽するうちに、助けが来た。そうだ。ここはバス停だ。財布を持った者だけが恩恵に与れる、船賃220円の救助船。強烈な違和感に圧倒されていたわたしは、逃げるようにバスに乗り込むと、すべてのことから目を伏せた。白い人影は折りたたまれた宅地のすき間に紛れ込む。もはやただの夜だ。静かな夜だ。何事もない。まるで初めから何事もなかったかのように。

 今日、浅草のホテルで火事があり、調布の民家に飛行機が墜落した。人知を超えた抽選が、あらゆる瞬間ごとに行われている。他人事と呼べるものなど在りはしない。恐れるべきは、目を背けた今日のわたしか、目をやりもしないであろう未来のわたしか。心はざわつく。

230715

 皆様に嬉しいお知らせです。2015年8月をばけねこブログ強化月間として、毎日ブログを更新します。本当にします。絶対にします。ご期待ください。ネタの書き溜めとかそういう女々しいものはありません。絶対に8月は毎日ブログを更新します。よろしくお願いいたします。

290515

 最近は毎日豆乳を飲んでいます。豆乳をとうny…なんでもないです。老化防止にも効くって話だったんだけどなあ。

140415

 初めてお会いして、そして、もしかしたらもうお会いすることもないかもしれない方に、今の自分に一番欠けているものを指摘していただくという経験をしました。それだけで視界が開けたような感覚になるのだからチョロいものです。チョロいとか、トラブるとか、テンパるとか、そういう言葉に強くつよく心惹かれる。

020415

 春菊を食べた。

100215

 個性を活かすというと聞こえはいいですね。染み付いた行動様式に逆らわずにやってみたいなと考え中です。つまり、こういうふうに、抽象的なことしか口にしない、ということです。冗談!でも、ふわふわしていたい。

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