日記
060418
控えめな雨雲が、四月の薄暮に到来した。決して高級住宅街とはいえない、平凡で庶民的なその駅の、改札を右手に進んだ玄関口は、簡素な屋根のもとで空に目をやる人々と、それをすり抜けて足早に去っていく人々で、その時間帯にしてはそれなりに混雑していた。わたしは低廉な間に合わせの傘を求め、徒歩十数秒のショッピング・センターへ歩いていた。
洋品売り場では、数名の家庭的な婦人が、同じような考えで応急的に傘を選んでいた。興味深いことに彼女たちの多くは、粗悪なビニール傘のように数回で使い捨てられる臨時の雨具でもなければ、この雨をしのいだのちも、家族の誰もが無意識に使用できそうな、しかし老若男女が取り立てて好感も悪感も持たないであろう無難なデザインの実用品でもなく、安物ではあるが使い捨てではない程度の、そしてある程度華やかな婦人向け傘から求めるものを決定することをしていた。ある壮年の婦人は淡いブルーに紺の細いストライプの入った晴雨兼用の傘を、またある初老の夫人は黒地にまんべんなく檸檬の柄の入った雨傘を選択した。
それは、未就学の男児の擦りむいた膝にほどこす簡単な手当てのような、生活の中で時折出くわす小さな困りごとに対して、それほど大きな動揺もなくごく自然に、ほとんど機械的に生ずる臨時処置でありながら、その発生機序には、色彩や衣料品に関する各々の趣味が、忘れもせず思い出しもしない、ふるさとの母親の口癖のように、静かに、しかし確実に組み込まれていた。婦人たちは、美意識に従いながらこの小さな困りごとへ対応しているのだ。駅前の大衆的なショッピング・センターの一角で、それは思いがけなく高雅な光景であった。
わたしは店を出て真新しい雨傘を広げた。オフホワイトの生地に、やや黄みを帯びた色彩のピンクと緑で、水彩調のチューリップが一定の間隔で印刷されている。工業生産の普及品ではあるが、骨組みには軽量金属と適度な弾性の樹脂が用いられ、丈夫で、扱いやすく、ある程度の風にも耐えそうな、実用的なものだ。多くの機能性が、この雨に対してじゅうぶんに効果的な処置としての役割を果たすとともに、雨に対しても納得のいく成果を上げることを、道すがら約束していた。そしてそれら機械的特長のうちには、春の夕刻の抑制された雨のように、日常を適切に潤す趣味性も包含されている。機能美というべき純実用的な意匠のみに依拠しているのではない。的確な美が機能として設計されていた。美しい子守唄が、即応的な合目的的音響であると同時に、それ自体が独立した美的価値を備えているように、異なる種類の効用が存在し、程よく調和していた。高すぎず高雅であった。
280318
新しい眼鏡が仕上がったので受け取りに行きました。まんまるに近い金色のフレームに、ごく薄いパープルグレーのレンズが、控えめに言ってすっごくおしゃれで、うれしくて部屋の中でもずっとかけてます。
170318
この半年から一年くらい、体質のこまごまとした変化を実感しています。炭水化物食べられないとか、鶏むね肉が結構本当においしいとか、髪質も肌質も変わってきました。人格の成熟?それはたぶん一生ムリだと思います。
次回は新しく買ったオーブンがどれだけ素晴らしいかについて文字を書きたいと思います。お楽しみに!
160318
経理課にいたころ、後輩への業務指導の一環として、手書きの日報を作成させ、翌日までにそれを読み、朱書きの簡単なコメントを入れる、ということをしていた。双方にとって軽くない作業であったが、これは業務の進捗や習熟の度合いを確認すると同時に、信頼関係の構築に大いに役立った(のちに私も含めた全員が異動になったが、そのうちの一人とは今でもプライベートに準ずる付き合いが続いている)。純粋な業務効率を考えるならばもっとスマートな方法があるが、個人的には大きな収穫があった。ビジネスシーンにおいても、より利己的でなくいられる環境を構築できることを確認できたのだ。
ある種の社会に属していれば、謀を巡らせ、他人を操作するような対人技術を身につけることは難しくない。けれど、それを放棄し、利己的にならずにいられる関係が多いほど、より多くの安息を得られると信じている。それは全人的な福徳であって、自らの努力でつかみ取ることを望める幸運である。家族/恋人/友人/学友/同僚と、ひとを形式的につなぐ要素はさまざまであるが、利己心を手放す喜びはそれら具体的な関係性を超越する。
そうした安寧が、時にはっきりと損なわれることがある。おそらく双方の利己心がもたらす悲運だ。心を閉ざす喪失感の大きさは、閉ざされる寂しさを遥かに凌ぐ。
050318
堅牢なものの上に成り立っているという感じがない。そういう状態なので、確信できるものがない状態で揺れ動いているものを見聞きしたり思い出したりすることで精神が摩耗する。でも意識を別のところに向けるのは難しい。
240218
回顧することが近頃また多い。ただでさえ自分に欠けているものを持っている人の言動は気になってしまう。それが支配的パーソナリティに基づく自己アピールのスキルであって、関心と尊重とを報酬として開発された能力であるなら、なおさらだ。
ひとは表面だけを見るわけでも、本性(というものがあれば、の話だが)を見極めようと努めるわけでもなく、その中間くらいの、ある程度可塑性のある文脈の部分にこそ頼っているのだと思う。決して浅くないがゆえにある種の洞察の要求を満たし、しかもはっきりとは言語化しがたく、取扱いが手間である。
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