101016
【久しぶりに食べたけどこれ絶対味変わったよね(前のほうがおいしかったよね)シリーズ】(1)
「Q・B・B スウィーツ好きのためのチーズデザート 6P」:ぜったい前のほうがおいしかった。特にバニラ味。
【久しぶりに食べたけどこれ絶対味変わったよね(前のほうがおいしかったよね)シリーズ】(1)
「Q・B・B スウィーツ好きのためのチーズデザート 6P」:ぜったい前のほうがおいしかった。特にバニラ味。
もっとこう、なにげなく、それでいてきわめて重大な孤独。
スーツを新調した。新しいスーツはいいです。新しい自分は常にいい。
ひとに出来事を語るとき、その言葉は、向かい合ったその人と情報を共有するための媒介物であると同時に、状況をあらためて概観し、それに対する自身の感情や論理を、みずから反省する手がかりとなることがある。
『コンビニ人間』の主人公、古倉恵子は奇天烈な人物であり、作品の第一の山場は、間違いなく彼女の奇妙な言動と、みずからそれを弁明する終盤の長台詞にある。こうした構成は小説の技法上もの珍しいものではないが、『コンビニ人間』が優れているのは、主人公が徹底して語り部となり、作品における形式的な〈部品〉としての役割を果たそうとする点にある。読み手は、『コンビニ人間』の多くの部分において、古倉のまなざしを追体験することになる。古倉のレンズを通し、まあまあ珍奇な人物の行動を観察し、古倉の解釈を手がかりに、〈ムラ〉の人間どもを冷徹に眺めてゆく。彼女はあらゆる主観の発露から距離を置こうと試み、自身の特異なエピソードを積み重ねることで物語に肉付けしてゆく陳腐を回避する。
視点がそうであるのと同じように、それを描写する言語もまた明晰である。クリアであり、実直であることを美徳とする。「言語明瞭、意味不明」とは云ったものだが、話し手の思考や表現の簡潔さのために、思いがけなく説得、あるいは感服させられてしまうという経験は誰しもあろう。こうした説教の試みは、当事者の価値観が乖離するほどに困難であるが、古倉はみずから作品の無機質な〈歯車〉となることを選択し、それを成し遂げようと企てている。
古倉において、一切の出来事は、かくて異論の余地なく順当に継起したものとして粛然と取り扱われる。物語後半、平易な表現であらゆる奇想を淡々と正当化する古倉の演説は、自然の摂理──花は散り、木は枯れるというような普遍の条理──を我が子に教諭する母の言葉のようであり、そしてまた、種の形状から果実の特徴を、果実の特徴から花の姿をという具合いに、時系列を遡って植物の生活環を辿るような、彼女自身の内省の営みでもある。顧みるに古倉の論理は奇妙である。奇妙であることはそれだけで一定の困惑を喚起する。しかるに、人が真に動揺するのは、巨大な深海魚のごとき生々しい奇妙さが平然と呼吸しているのを眼前にすることによってであろう。明晰なまなざしと端然たる言語の運びは、まさしくそれらの簡素さゆえに、濁りなく透明であるべきであったものの色彩を、改めてはっきりと描き出すことになる。彼女は、彼女ばかりは、本物であると。
コンビニは変わらない。作中、変わらないものとして描かれる。商品、備品、従業員など、そこにあるものがすっかり代替されたとしても(あるいはひょっとすると、新陳代謝による〈修復〉が進んでいるからこそ)、その本質を変えることなく、超然としてそこに在り続ける。そして同様のことはきっと、私たち自身の心の在りさまにも云えるのだろう。人間は周縁のものを摂取し、絶えず変容していくものであるが、乱されぬまま遮断されているものが、たぶん、真底にあるのだ。古倉の希求した透明な無機質さは、揺らぐことを知らぬ大樹の根元であるか、あるいは仮初めに採取された外界の一要素に過ぎないか。痛快な作品。
なにかの分野で最強になって、それで、インタビューとかされて、とんでもなくちやほやされて、「いやあ最強でよかったです。気分がいい。こんなにちやほやしていただけるんですもの」みたいなことを思うさま言ってみたい。最強になった方はおめでとうございます。私はまだです。そのうち、ね。
おめでとうございます。新年も1週間が過ぎましたね。クリスマスに始まり、忘年会に新年会、宴も多く、何かといろいろあった年末年始。今夜はあたたかい七草粥で胃をいたわる方もいらっしゃるかもしれません。私はというと、苦しくなるまで牛タンを食べまして、今、なんといいますか、最高の気分です。小学6年生の冬、タン塩の食べ過ぎでお腹を壊して病院に運ばれたことを思い出します。あれから何ひとつ変わっていません。おととし一発目のブログもそんなようなネタでした。どうぞ読み返してみて下さい。いかがでしょう。あれから何ひとつ変わっていません。本当に何も変わっていない!逆に言えば、ひとには、何年たっても引き継いでいるような小さいころのみずみずしい経験が、たくさん、本当にたくさん、寄り添っているということです。多いことは豊かなこと。豊かなことは素晴らしいこと。何事も多ければ多いほどよいものです。豊かな人生にしていきましょう。天高く馬肥ゆる2016年。みなさんもぜひおいしいものをたくさん食べてみては。